「公平のために両論併記」という罠

Wikipediaなどで、1つの問題について複数の対立意見がある場合、「公平のために両論併記」といったことがよく行われる。一見、どちらの意見も尊重した理想的な書き方に見えるが、とんでもない。両論併記が必ずしも公平にならない場合がある。
問題が起きるのは、対立する意見の一方が少数にしか支持されていない場合である。これを「両論併記」としてあたかも拮抗しているように書くことは、一方の意見を意図的に大きく見せている点で、全く公平ではない。

「論争が存在するから載せろ」のID説*1

ID説というのがある。おおざっぱに言って、進化論を否定し、生物は何者かによって創造されたものだと主張するものだ。天地創造説の現代風焼き直しみたいなものだが、アメリカではこれを公教育に取り入れろという運動がある。しかも結構な規模で。このときに彼らが使った論法が「論争が存在するんだから、公平のために進化論の隣にID説も載せろ」というものだ。アメリカ人の弱そうな"fair"を巧みに利用して、ID説はカンザス州で本当に教育に採用された。

「少数派に対する迫害だ!」と言う脅し

こう言うと、必ず湧いてくるのは「少数派の意見も尊重すべき」という意見だ。しかし、少数派の意見を尊重することと、少数派に必要以上に肩入れすることは全く違う。少数派の意見が「少数派である」という理由だけで軽んじられ、棄却されることは公平ではないが、少数派であることは決して特権にはならない。科学史などで、現在では正しいと認められる理論が発表当初はごくごく少数派であったことは往々にしてある話だが、どうもそのせいで「少数派はいつか形勢逆転する」という意識がある気がする。自らを「主流派から迫害された哀れな少数派」に見せかけて支持を集めるのは、疑似科学やカルトの典型的手法である。

では、公平に書くにはどうしたらいいか

Wikipediaの基本方針*2には以下のような記述がある。

疑似科学のトピックについての記事はどのように書くべきでしょうという問いに対して)


われわれに課せられた任務は、その疑似科学が科学的な見方とあたかも平等に張り合うような説であるがごとく紹介するという何かインチキな「フェア」の概念に基づいて論争をフェアに描写することではありません。むしろわれわれの任務は、主流派の(科学者の)意見を主流派のものとして提供し、少数派の(時として擬似科学的な)意見を少数派のものとして提供し、更に、科学者がそれら疑似科学の意見をどのように受け止めているかを説明することです。

つまり、両論併記するにしても、少数派の意見を少数派のものとして書けばよいのである。そうすれば、読者は現在どちらの意見が支持を多く集めているかという事実を得られる。その上で、読者がどっちを信じるかは読者の自由だ。両論併記は、折衷案や妥協案として安易に用いられるが、それが本当に公平なのかは常に考えなければならない問題である。

*1:ちなみに、日本でのID説の支持者に京大名誉教授がいる。

*2:でも、この文章は翻訳調で頭が痛くなるので、あまり読まない方がいい。