『数学の想像力 正しさの深層に何があるのか』を読んだ

京大にいた頃に一度だけお会いしたことのある加藤文元先生(現:熊本大教授)の著書ということで,読んでみた.本格的に数学史を扱った本を読んだのは初めてだったので,数学を研究してる者として非常に楽しめた.

数学の「正しさ」とは

本書のテーマは「数学の正しさとは何か.」「正しさ」を納得させる機構(本文では「決済」と読んでいる)について,数学史を紐解きながら論じている.現代数学では,「正しさ」は論理的に正しい証明によって担保されている.この「正しさ」を証明に求めるスタイルは古代ギリシア数学が起源なのだが,本書はこのようなスタイルは数学史の中ではむしろ特異的であることを指摘している.

(前略) 時代性・地域性という観点から「証明」という行いを見たとき,数や図形を論じる際に〈正しさ〉を確信させる方法として演繹的証明を採用するという流儀は,むしろ極めて特異的なものに見える.それは古代ギリシアで生まれたものであるが,むしろ古代ギリシアでしか生まれなかったということの方が重大だ.

実際,和算や中国・インド・アラビアなどの数学では証明というより,計算が「正しさ」を担保していた.今風にいうと「良いシミュレーション結果が出ること」をもって「正しさ」を担保していたのである.現代数学と異なるスタイルの,しかし豊かな数学がかつてあったことに驚かされる.

ギリシア数学の証明スタイルはどこから来たか

では,特異的でありながら現代数学の骨格となった「証明スタイル」は,なぜギリシアで生まれたのか.これについて,本書ではいくつかの仮説が提案されている.

  1. ピタゴラス学派が活躍した頃の土着宗教の影響

  2. 古代ギリシア哲学の影響

  3. 無理数・無限のパラドックスに対する恐怖

残念ながら,古代史や哲学を知らない自分には,1・2は読んでも「ふ〜ん」という感じだったが,3について,ギリシア数学では数の扱いが現代のものとは異なるという視点が面白かった.たとえば『ユークリッド原論』では,数は線分によって生まれる副次的なものとして扱われていて,比例などの数演算が「正しい」のは,線分という幾何的根拠があるからだと考えていたらしい.つまり,数は平面幾何に比べてあやふやで危険なものとして捉えられていたというのだ.

「〔線分〕ABを偶数とする」といった言明は『ユークリッド原論』の中では頻繁に現れるが,現代の我々にとっては非常に奇異な感じを受ける.

このような数に対する不信感に至った背景として,無理数の発見が本書の中で指摘されている.たとえば,√2が無理数であることは直感的な議論では確かめられない.背理法という論理的に高度な技法が必要である.この高度に論理に依存しなければ分からない真理があるという事実が,ギリシア数学を徹底した証明主義に向かわせたらしい.

代数学の「正しさ」とは

その後,現代数学は平面幾何から計算に基盤を移していき,ギリシア数学流の論理主義はいったんは影を潜める.ところが,解析学における無限の取り扱いをきっかけに,再びギリシア数学流のスタイルが復活する.実は,有名なコーシーのε-δ論法は,よく見るとギリシア数学のアルキメデスの原理(性質)の焼き直しに過ぎないという,オドロキの事実が本書で指摘される.この後,数学は徹底的な公理化・形式化が推し進められ,現代の公理ベースの数学スタイルに連なっていくというわけだ.

さて,結局現代数学の「正しさ」とは何なんだろう.本書の結論は,数学は自然科学を真似てモデルの学問となることで「正しさ」の担保から逃れたというものである.自然科学は,自然の真理なるものを直接解明しようとは考えず,より良い近似モデルを作ることを目的としている*1. 数学も,科学的思考の影響を受け,自然科学と同じモデルの学問に変貌することで「正しさ」の担保から逃れたというのである.この「数学が自然科学の影響を受けて変貌した」説は,本書の一番過激な部分だと思うのだが,最後が駆け足気味だったのでもう少し議論が要りそうではある.ただ,自然科学は数学を基盤にしているというナイーブな図式が,実は間違っているかもしれないというのは面白い.

まとめ

代数学の「正しさ」について数学史と絡めて論じていて,なかなかエキサイティング.数学を研究している人であってもオドロキの発見があるはず.

数学の想像力: 正しさの深層に何があるのか (筑摩選書)

数学の想像力: 正しさの深層に何があるのか (筑摩選書)

*1:このあたりは科学哲学で長い論争があったはず