『恋空』で感動する、という儀式

いろいろと話題のケータイ小説『恋空』。ふと思ったが、『恋空』を読んで「感動した」と言っている人間は本当に感動しているのか?
別に私は『恋空』という作品が悪いのであんなので感動するわけがない、と言いたいのではない。感動の基準なんて千差万別*1だから、本当に感動する人がいても不思議ではない。問題は「『恋空』を読んで感動する」というのが、一種の流行、あるいは儀式と化しているのではないかということだ。


これは「恋愛至上主義」の風潮とも関連するだろうが、流行の世界では恋愛に対してネガティブな表現をすることが完全にタブー視されている。タブーを犯した者は「ダサい」とのレッテルを貼られてしまう。
そこにマスメディアが「感動するケータイ小説『恋空』」の大宣伝をするわけである。その宣伝ぶりは「普通の人間なら感動しない奴はいない!」という脅迫さながらである。そうするとレッテルを張られる恐怖と相まって、「『恋空』で感動すること」が支配的な空気が生まれてくる。
ここで読者層が10代くらいの女子に偏っていることを考えると、この支配的な空気に反抗することはますます困難になるだろう。この年代層にとってコミュニティの空気は絶対的な価値を持っているからである。


逆に考えれば、『恋空』という作品をさらりと読み、「感動した!」と表明して、適当なオススメ文をmixiか何かのコミュニティで発表しさえすればいいのだから、これほど楽な「空気の読み方」もない。したがって「『恋空』で感動した!」というの声の中には、単に形式的なものにすぎない場合が多々あるのではないか。


まとめると、「恋愛至上主義による恋愛を否定的に捉えることへのタブー視の風潮」と、「マスコミによる脅迫ともとれる過剰な宣伝」が、「感動しなければならない」という支配的な空気を作りだしている、というのが私の意見です。

*1:ちなみに私は「2ちゃんねる閉鎖騒動のUNIX板の活躍」flashで感動します