終戦記念日前に思う

明日は終戦記念日。注目は小泉首相靖国神社を参拝するか否か、である。大方の予想では小泉さんは参拝するのだそうだ。当然、これに反対する向きもある。曰わく「アジアとの関係を考えろ」「政教分離に反する」云々。
ここで彼らの主張に反論することはしない。靖国参拝によって「アジア」との関係が悪化するのも、靖国参拝が厳密には政教分離に抵触するのも事実だからである。しかしだからといって、靖国参拝をしない理由にはならないと考える。つまり、靖国参拝には「アジア」との関係や、政教分離だとか、そういったものを超える重要な価値があると思うのである。
靖国神社に祀られているのは、戊辰戦争以来の戦死者、とりわけ太平洋戦争での戦死した方々だ。彼らは家族のため、友のため、ひいては日本のために命を散らした人達なのだ。彼らが命を捨ててまで願ったものは、自分たちの子孫、未来の日本人の幸せだった。だったら、彼らのために祈るのは、彼らの子孫である我々日本人としては当然ではないか。いくら日本の「国益」に反しようと、政教分離に抵触しようと、私には彼らの思いを黙殺することなどできない。
また「A級戦犯」の問題もある。最近では彼らを分祠してしまおうなんて話がある。まったく死者をも恐れぬというか、呆れるばかりだ。日本人はかつて国会で「A級戦犯」などいないと決議したことがある。当時の日本人には、特定の死者に「戦争責任」を丸投げしてしまうような非道なことはできなかったのである。しかし今は「A級戦犯」に全部の責任を被せてしまおうとしている。自分たち国民は被害者なんだというスタンスに再び立ち返ろうとしている。無責任な話だ。一体何のために税金を投入して、円借款やら経済援助をしてきたと思っているのか。それとも責任は故人に丸投げして、金だけ払っていればいいなんてなことを言うのか。
誤解のないように言っておくが、私はまた謝罪やら賠償をすればいいと言っている訳ではない。表向きだけ取り繕って、死んだあいつらが悪い、俺たちは金さえ払えばいいんだろ、といった心の有り様が嫌いなのだ。実際に、追加で謝罪や賠償の必要があるかどうかとはまったく別問題である。


明日、小泉総理は本当に靖国に行くだろうか。もし行くとしたら、「中国や韓国への反発」だとか「意地」なんて感情で参拝してほしくはない。真に、戦死者への哀悼の意、平和への誓いの気持ちをもって参拝してほしい。